つむぎめむすび

つれづれなるままに、何気ない今日を。

言葉と生きていく。「自分の感受性くらい自分で守ればかものよ」

ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

茂木のりこ
詩集「自分の感受性くらい」(1977年刊)


前職の時、すごく尊敬している方がこの詩を教えてくれた。「周りがどうであれ、私たちは私たちでいたいよね」って。周りの圧力に負けていないか、人の顔色ばかり伺っていないか、忙しさに殺されそうになっていないか…。

心は自由か。

この詩をもらった時、私の心は自由じゃなかった。きつかった。苦しかった。
だから、この詩が響いた。心まで奪ってしまうのが社会の怖いところだと。そして、心まで人にあげてしまったら終わりだと。
それ以来ことあるごとに私はこの詩を思い出す。

 

知り合いの誰にも教えないと決めて作ったこのブログ。「話題があってもなくてもとにかく更新する」を目標にしていて、たいして内容はない。その日に思ったこととか、好きなものの話とか、しょうもないことばかりを書き綴っている。でも、気付けば毎日更新して1か月が経った。メインブログの更新は止まっているのに。

結局私は自由にしか書けないらしい。

それくらい私は書くことが好きで、私にとって大きい存在なんだと知った。書くことは私を表現する「手段」ではなく、私「自身」なのだと。仕事とも義務とも違う、そして誰かの顔色をうかがうことはもっと違う。自由の中にだけ「書くこと」を入れておきたい。いっそ自分の自由に閉じ込めてしまいたい。

 

前の職場でライターをしてた時、社内で「良い文章」と言われるのは、「当たり障りない、修正のあまり入らない、誰が見ても美しい文章」だった。そんなんだから、どんな記事を見ても同じに見えた。たったひとりに寄り添った文章のはずなのに、大多数の誰かに当てはまる文章に何の感動があるんだろう。

そしてふと振り返った。自分のブログに「美しいつまらない文章」が並んでるような気がした。書く気が起きなくなった。
先月、無職時代から細々と続けていた個人的なライターの仕事をすべて片付けて、一旦終えた。

書くのが嫌になったのか?そうじゃない。

やっぱり私は書くことが好きで、毎日溢れ出てくる言葉の渦を吐き出さないとやってけない。排泄と同じ感じ。

書くことは自分と分離できるものでもなく、自分の存在と結びついているものなんだと知った。ああ、そういうことだったのかと、やっと分かった。そしたら、いろいろ見えてきた。
だから、私はフリーライターにはなれないなと思ったんだった(あくまで現段階なので、言及は避けておこう。私は気分屋だから)

 

書くことを、言葉を、誰かに支配されることは、心を支配されることだ。私にとっては死だ。


自分の心は、言葉は、自分で守ろう。

さあ、自由に。

自由に書こう。思いのままに。

 

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