つむぎめむすび

つれづれなるままに、何気ない今日を。

私が英語嫌いになったわけ

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ベトナムで働いたり、海外旅行したりしてると、よく「英語できるんでしょ〜いいな〜!」と言われる。けど、全くできません。謙遜とかじゃない。まじです。大学の時全学生対象のTOEICではすさまじい点数をたたきだした。具体的に何点だったか覚えてないけど「すさまじい」だったことは覚えてる。点数見るのが怖くて、その次のTOEICは休んだ。

 

そのくらい、英語が苦手。というか恐怖。

 

でも高校では国語が好きだから文系を選んだ。だからこそきつかった。英語と完全に決別したのは、高2の時。忘れもしない。あの1年が私に恐怖を植え付けた。

 

英語を教えてくれる先生(というか担任)は、決して悪い人ではなかった。あとになってその頃のノートを見返すと、まあ為になるポイントがたくさん書いてあったから、良い先生だったんだと思う。

 

ただ、英語が苦手な子があの教室で生きるのはあまりにも厳しかった。

毎回の授業は単語の小テストから始まる。単語帳の指定された部分を覚えてきて、解けばいいのだけど、あのたった1枚の、A4サイズの、テストとの対峙がどれほど怖かったか。どんなに真面目に憶えても変化球の問題に対応できなくて、いつもクラスで出来損ないの点数だった。

自己採点で点数が分かったらみんな立つ。先生が満点から1点ずつ下げて点数を言っていき、自分の点数の時に座っていい。立っている人が数人になったら、先生の声がやむ。その日の授業では、点数の低かった人を含む列の人が重点的に当てられる。縦列か横列かは先生の気分。つまり大体私のいる列の人は犠牲になる。なんていう制度なのだろう。五人組なんていつの時代の話だよ、こちとら平成生まれやぞ。

立っている自分が情けなくて、でも私としては精一杯してるつもりだから悔しくて、そして何より同じ列の人に申し訳なくて…。

クラスメイトは本当に良い人で、誰も私に文句を言う子なんていなかった。たぶん心の中でも思ってなかったんだと思う。だってみんな当てられても答えられるから。痛くも痒くもない。(英語ができないくせに文系の上位クラスにいたおかげで、周りはめちゃくちゃ英語ができた)当てられて焦ってるのは私だけ。痛いし痒いわ。泣きたかった。

 

ある時から私は決死の覚悟で単語テストでカンニングをするようになった。小さく書いた単語リストを見えないように筆箱に潜ませてた。怒ると5個隣のクラスまで怒鳴り声が聞こえるほど激しい先生だったから、本当に必死だった。それでもやっぱり毎度出る変化球問題には対応できなかった。英語のモチベーションは0だった。伸びるはずもない。ただただなるべく目立たないように、体を小さくして、目を合わせないようにして、50分耐え忍ぶ時間だった。

 

3学期は残りの英語の授業数をカウントダウン形式で机に書いてた。文系だし1日3コマ英語がある日もあった。本気で学校を休みたかった。吐きそうだった。今思えば休んでしまえば良かったと思う。そんなに無理して学校なんて行かなくてもいいと今なら言ってあげられる。でもそんな度胸なかった。

 

結局私は2年生の終わりに、次の学年で上位クラスにいることを辞退した。ここで初めて逃げた。国語の先生とは馬があったし、その先生の授業をこれからも受けたかったけど、それを捨ててでも英語の恐怖を解かなければ、英語はおろか、全てに支障が出ると思った。

特に英語の先生は担任だったから、「英語ができない」という劣等感を抱えた私は、どうしても普段の生活でも先生とうまく会話できなかった。なにを言うにも言われるにも、たとえそれが冗談だとしても、うまく笑うことができなくて、先生が去ってから今の自分に変なところはなかったか振り返ってた。

 

いつからか英語に心を閉ざしてしまった私を少しずつ救ってくれたのは、3年生での英語の先生だった。初めて楽しいと思った。楽しいと思えたら、ちょっとでも英文を読んでみたいと思った。そのためにちょっとでも単語を覚えたいと思った。結局その1年で飛躍的には伸びなかったし、大学行っても相変わらず英語は苦手だったけど、受験はなんとか乗り越えることができた。

 

今でも書店で並んでる英単語帳を見ると、あの頃の恐怖を思い出す。もう10年近く前の話になるのに。

 

「英語ができない」

自分で貼ってしまったレッテルはあまりに重い。自分でそれを剥がせば良いのに、剥がし方も分からない。もはや剥がしたいのかも分からない。